感情が平坦な私の自己分析
多分、この記事は誰の役にも立たない。なぜなら、きちんと整理できた自信が無いので。もっとも、今までの記事も大したことは書いて来なかったけれど。
数年前に学校の同級生に言われたことだけれど、私は「表情が無表情と笑顔しか無い」と言われた。とくに今まで気にして来なかったけど、最近、感情があまり動かないと思いまして。そんなことを考えてたら、このセリフを思い出した。
思い出したのも何かの縁ということで、今日はなぜ表情が乏しいのか、を空っぽの頭で考えて行こうと思う。
と言っても、私の育ってきた環境なんて、家庭と学校くらいしかありませんが。主にこの2つから考えてみたい。
まず、1つめの家庭について。感情を出す場として一般的な場所とは、おそらく家庭であり、家族と接することと思われる。ところが、私は家族と安心して関わり合えた経験が記憶の限りでは思い出せない。
理由として、私ができなかった、調子が悪かった原因のほとんどを気合の問題で片付けられたことが、家族に対する不信感に繋がっている気がする。
嫌いな食べ物が食べられないのはやる気が無いからだ、学校に行きたくないのはやる気が無いからだ、習い事に行けないのはやる気が無いからだ、・・・。
「違うよ、自分でも説明できなかったけど体が重かったんだよ」と、今なら言える。
しかし、本当に小さい頃から、それこそ小1の頃から言われ続けて来た。
で、それに無理やり従った。疲れた。
最初の頃は家族との喧嘩とか、ある種の問題行動を起こしていた。
しかし、それがずっと続いて、気力が薄れてきてしまった。無気力な状態である。
そんな状態の私をみて、彼らはこういった、「昔がおかしな感じだったけど、今はまともになって、本当に良かった」、とね。
彼らが言うまともとは、どうやら犬猫でいうところの去勢された状態だったのか、そう考えてしまった。こんな人たちになにを言っても無駄か、という諦めも出てきた。
2つ目の学校もほとんど似たようなものですね。私が当たった教師たちも、昔で言うところの根性論や精神論が大好きな方たちでしたから。当然、私のことも、ただやる気のない生徒程度にしか見られなかった。
故に、私は学校というところが嫌いである。
そんなことを最近一人で考えたら、私の話を聞いてくれる人に出会えなかったことが原因ではないか、そのように思った。
少なくとも彼らにとっては、私は完全に去勢対象であり、生まれて来ないほうが良かった人間なのだろう。
これが原因だ、とは断言はしないけど、どうも私は人に話すときも、どうせ伝わらない、という思いが先行してしまう。早い話、人間に対する不信感がすごい。
今現在、そんな状態の人間は果たしてどのように行動すれば良いのか全くわからない。
きっと、ロクな死に方しないだろうな。
要点のまとまらない、駄文となってしまい申し訳ないです。ここらで失礼します。
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